ゴー宣道場in新潟の発表のため、
さまざまな雑誌記事を読み続けている。
その中で、西部邁氏の「神格と人格のけじめ」という記事があった
(「平成皇室の命運 私はこう考える『文藝春秋』2005年3月)。
独特の筆致で皇室の在り方を論じているのだけど、
最初に皇室云々より国民の在りようを
取り上げているのが興味深い。
「一口に民主主義といっても、その『民』が
伝統精神を担うものとして『国民』なのか、
それとも伝統精神をかなぐり捨てようと
構えている『人民」なのかによって、大きな違いが生じる。
だから人民主義に傾く戦後日本の風潮にあっては、
天皇の地位を民の総意にもとづかせたとて、肝心の総意が、
過去から蓄積されてきた『歴史の英知』ではなく、
現在において表現されている『目前の関心』にすぎないものになる」
目を覆いたくなるほどひどい皇室に対する「国民の声」は、
結局は「目前の関心」に過ぎない。
時系列で皇室バッシングを追っていくと、
そのことがよーくわかる。
週刊誌の大衆的興味に完全に踊らされた、
単なる「印象」でしかない「国民の声」は、
ことごとく間違っていたと時代が証明しているのだ。
西部氏は、そのことを大局的見地からよく見えて
いたのだろうな。
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